ふふふのふ

思考の整理のために書いています。雑記。

続・春の空と乙女心

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喫茶店の帰り、久々にママのお店へ行った。ベロンベロンに酔っぱらった彼女は、あの人と出会ったことや、3年も続いたことは奇跡なの!と泣きながらくだを巻いていた。
「諦めよし。その人はもう次の出会いを求めて進んでるから。振ったほうってそういうもんでしょ。男ってね、振って次の日に合コン行って、新しい娘にロックオンするの。そういう生き物だから、しょうがないの!あんた、3年続いたのは奇跡じゃなくて、意思!お互いの意思!」ママは元男性なので、どちらの気持ちも分かるらしい。今回ばかりは、ママの意見に賛成だ。これは彼女に内緒だけれど、あの人にはもう次の彼女がいるらしいと、風のうわさで聞いた。恐るべし、友人連絡網。

 

ママの説教を聞いて、ふと、「恋は奇跡。愛は意思。」というコピーを思い出した。なんというか「恋」とはそういうことで、「愛」とはそういうことなんだろうな、と思う。人はいろんな場所に、モノに、恋をして生きている。様々な場面で、奇跡を感じる瞬間なんてたくさんあって、でも今になって考えると、その奇跡の中で覚えているものや、今でも大切にしているものなんてほんの一握りしかない。

その一握りが何なのかと考えてみると、意思を突き動かしてくれたものではないかと思う。人生には、奇跡に加えて意思が何よりも必要かもしれないと思うのだ。これは何にでも当てはめることができる。奇跡を手に入れたら、そこから自分の意思にどう変えていくかが大切。というより、その奇跡が本当に自分の意思を動かしてくれるものなのかを確認することが大事なのではないかな、と。

 

わたしは、奇跡というものは、そこらに転がっている、石を投げたら確実に当たるぐらいのものだと思っている。奇跡のように気が合う人に出会えることや、奇跡のようにいろんな良いことが起きること、逆に奇跡のようにこれでもか、と悪いタイミングが重なることなど、奇跡は誰のまわりにも、そこらへんに散らばっている。
この世には、わくわくする奇跡がいっぱいある、と、思いたい。だけど、人生は奇跡の量じゃなくて、意思の量で豊かさが変わるんじゃないかな、と、考えた月曜日の夜なのでした。彼女、ちゃんと仕事行けたかなあ。